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【宝暦事件の経緯】1756年の前兆から1759年の追放までを時系列で解説

天海 竣 天海 竣 • 更新: • 公開: • 読了約 11 分
目次

宝暦事件は、ある日突然起きた弾圧ではありません。竹内式部の講義が公卿社会に広がり、桃園天皇への進講に発展し、朝廷内部の対立が深まった末に処分へと至りました。

事件の流れを理解するには、処分が行われた1758年だけでなく、その前後の動きも押さえる必要があります。

1756年(宝暦6年):竹内式部をめぐる問題が浮上

式部が京都で公卿たちに神道や崎門学派の儒学を教えていたところ、軍学や武術まで指南しているという風聞が広がりました。

同年12月には京都町奉行による取り調べが行われましたが、この段階では大きな処分には至りませんでした。

この時点では、まだ学問活動をめぐる問題として扱われていました。

1757年(宝暦7年):進講をめぐる対立が深まる

竹内式部の思想に傾倒した公卿たちは、桃園天皇への『日本書紀』神代巻の進講を進めました。

ところが、こうした進講は天皇の政治的権威に関わる問題として受け止められ、関白や摂関家の警戒を招きます。

進講の停止をめぐる動きも起こり、朝廷内部の対立が表面化しました。

1758年(宝暦8年):公卿たちへの処分が実施される

事件が大きく動いたのが1758年です。

一条道香らが公卿たちの動きを問題視し、近衛内前を中心とする朝廷上層部が処分を進めました。

東京大学史料編纂所の研究成果では、7月24日に公卿たちへの処分が申し渡された記録が確認されています。

処分には官職停止、永蟄居、謹慎などがありました。徳大寺公城や正親町三条公積ら、式部の思想に傾倒していた公卿たちが政治的な活動の場を失っていきます。

1759年(宝暦9年):竹内式部が重追放となる

公卿たちへの処分に続き、竹内式部自身にも処分が下されました。

1759年5月、京都町奉行は式部を重追放に処しました。式部は京都を追われ、伊勢国の宇治山田へ退去することになります。

こうして、1758年から続いた宝暦事件の主要な処分は一段落しました。

宝暦事件の時系列まとめ

- 1756年(宝暦6年):竹内式部の講義や軍学・武術指南をめぐる風聞が広まり、京都町奉行の取り調べを受ける。
- 1757年(宝暦7年):桃園天皇への進講をめぐり、朝廷内部の対立が深まる。
- 1758年(宝暦8年)7月:公卿たちに官職停止や永蟄居などの処分が申し渡される。
- 1759年(宝暦9年)5月:竹内式部が重追放となり、京都を離れる。
- 1767年(明和4年):明和事件の際、式部も遠島に処され、八丈島への移送途中に三宅島で病死する。

最後の1767年の出来事は宝暦事件そのものではなく、竹内式部のその後の生涯に関わる別の出来事です。宝暦事件と明和事件を混同しないことが大切です。

【宝暦事件の背景と影響】江戸幕府の公卿統制と王政復古へのつながり

宝暦事件

宝暦事件が歴史上重要視される理由は、竹内式部や公卿たちが処罰されたという事実だけではありません。

この事件は、江戸幕府が朝廷の政治活動に強い影響力を持っていたこと、そして天皇の権威を重視する思想が幕府の統治体制と緊張関係を生み出したことを示しています。

なぜ江戸幕府は公卿たちの動きを警戒したのか

江戸時代の政治体制では、幕府が行政や軍事の実権を握り、朝廷は天皇を中心とした権威を保持していました。

両者は完全に独立した関係ではなく、朝廷の重要な人事や制度変更などについて、幕府への事前の相談や許可を必要とする慣行がありました。

早稲田大学の研究論文が扱う近世の朝幕間交渉でも、こうした事前伺いの制度が幕府による朝廷統制の仕組みとして機能していたことが論じられています。

そのような政治構造の中で、公卿たちが天皇への進講を通じて政治的な正統性を問い直すことは、幕府の統治秩序に関わる問題となりました。

加えて、東京大学史料編纂所が徳大寺公城の日記『公城卿記』を調査した研究成果には、事件の複雑な背景が記録されています。

処分の理由として挙げられたのは、次のような問題でした。

- 公卿たちが党派を形成していたこと。
- 桃園天皇に接近し、朝廷の実権を握ろうとしているとの疑い。
- 関白や摂関家、武家伝奏、議奏などへの批判的な言動。
- 幕府の政治的な優位に対する不満。
- 垂加神道に関連した仏教への批判的な姿勢。

これらの記録から、宝暦事件は単なる学説の対立ではなく、朝廷内部の権力構造や宗教観、政治的な主導権をめぐる複合的な問題だったことが分かります。

竹内式部への弾圧は尊王思想を消し去ったのか

答えは、そうではありません。

宝暦事件によって竹内式部や門弟の公卿たちは政治的な活動を制限されましたが、天皇の権威を重視する思想そのものが消滅したわけではありませんでした。

江戸時代後期には、さまざまな学問や政治思想の流れの中で尊王論が展開していきます。

その背景には、儒学や神道、国学、歴史研究など複数の思想的な潮流がありました。

国立国会図書館のレファレンス情報でも、18世紀半ばの竹内式部による尊王論の講義と宝暦事件、その後の山県大弐による尊王論や明和事件が、日本史上の関連する出来事として整理されています。

宝暦事件と王政復古の関係は?

宝暦事件は、後世に「王政復古の暁鐘」と評されることがあります。

王政復古とは、幕府による政治支配を終わらせ、天皇を中心とする政治体制を回復することを指します。

その歴史的な到達点として知られるのが、1868年(明治元年)の王政復古です。

宝暦事件が起きた1758年から、王政復古の1868年までは約110年の隔たりがあります。

両者の関係を理解するうえで重要なのは、宝暦事件を王政復古の直接的な原因と決め付けないことです。

宝暦事件の時点では、尊王思想は主として学問や朝廷内部の政治的な議論として展開していました。その後、国内外の政治情勢の変化や幕府への批判、尊王攘夷運動など、さまざまな要因が重なり、幕末の政治運動へと発展していきます。

歴史的な意味でのつながりは、特定の人物や組織がそのまま1868年まで活動を継続したということではなく、天皇の権威と政治の正統性を問い直す思想的な問題が、江戸時代を通じて繰り返し浮上したことにあります。

宝暦事件は、その早い段階で朝廷と幕府の緊張を表面化させた象徴的な出来事でした。

宝暦事件と明和事件の違い

混同されやすいのが、1767年の明和事件です。

比較項目 宝暦事件 明和事件
発生年 1758~1759年 1767年
主な関係人物 竹内式部、徳大寺公城ら 山県大弐ら
主な舞台 京都 江戸
主な思想的背景 垂加神道、大義名分論、尊王論 尊王論、幕政批判
主な処分 公卿の罷官・永蟄居、式部の重追放 山県大弐らの処刑など
歴史的な位置付け 江戸中期の尊王論者弾圧 尊王論者への別の政治的弾圧

この二つの事件は、時代背景や思想面で関連していますが、同一の事件ではありません。

また、竹内式部は明和事件に直接関係しないとされたにもかかわらず、遠島の処分を受けました。1767年12月5日、八丈島へ向かう途中の三宅島で病死しています。

【よくある質問】宝暦事件に関するFAQ

Q1:宝暦事件とは簡単にいうと何ですか?

A1:1758~1759年に、竹内式部の尊王論に影響を受けた公卿たちが朝廷側から処分され、竹内式部も幕府側から京都追放の処分を受けた事件です。竹内式部一件とも呼ばれます。

Q2:宝暦事件が起きた最大の理由は何ですか?

A2:竹内式部が説いた大義名分論や垂加神道に基づく思想が公卿たちに広まり、桃園天皇への進講にまで発展したことです。朝廷の政治的主導権や幕府との関係をめぐる緊張が、処分につながりました。

Q3:竹内式部はどのような人物ですか?

A3:1712年に生まれた儒学者・神道家です。山崎闇斎の学問につながる垂加神道や儒学を背景に講義を行い、徳大寺公城ら公卿に影響を与えました。1759年に京都から追放され、1767年に三宅島で亡くなりました。

Q4:一条道香は宝暦事件で何をしたのですか?

A4:一条道香は、竹内式部の思想に傾倒する公卿たちの動きを警戒し、幕府側に問題を伝えるうえで重要な役割を果たしました。その後、近衛内前を中心とする朝廷上層部が公卿の処分を進めました。

Q5:宝暦事件と王政復古には直接的な関係がありますか?

A5:直接的な因果関係が証明されているわけではありません。ただし、天皇の権威や政治の正統性を重視する思想が江戸時代中期に政治問題化した事例として、幕末の尊王論や1868年の王政復古を考える際の重要な前史に位置付けられています。

宝暦事件は、竹内式部が公卿たちに説いた大義名分論と垂加神道を背景に、桃園天皇への進講をめぐって朝廷内部の対立が深まり、最終的に公卿と式部が処罰された事件です。

1758年には徳大寺公城らの公卿が罷官や永蟄居などの処分を受け、翌1759年には竹内式部が重追放となりました。その背後には、一条道香や近衛内前ら朝廷上層部の危機感と、京都所司代を通じて朝廷を統制しようとする幕府の政治構造がありました。

【プロの結論】宝暦事件を理解するための3つの視点

1. 思想と政治を分けて考える。 尊王思想は天皇の権威を重視する考え方であり、必ずしも即時の倒幕計画を意味しません。宝暦事件では、思想の内容だけでなく、それを共有する公卿の政治的な結び付きが問題になりました。

2. 朝廷内部の権力争いにも注目する。 事件は幕府による一方的な弾圧だけでは説明できません。一条道香や近衛内前らの動き、摂関家と近習公卿の対立、宗教観の違いも重要な背景でした。

3. 王政復古までの長い思想史の中で捉える。 宝暦事件は1868年の王政復古を直接引き起こしたわけではありません。しかし、天皇の政治的権威と幕府の統治権の関係が問題化した早い時期の事件として、その後の尊王論の展開を考える手掛かりになります。

宝暦事件の本質は、学問をめぐる対立が、天皇の権威、朝廷の政治的自立、幕府による統治という大きな問題へ発展したことにあります。江戸時代の政治体制がどのような緊張を抱えていたのかを知るうえで、竹内式部一件は見逃せない歴史的事件です。

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デジタルマーケター 天海 竣
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